2022年夏の甲子園で、規格外の打力を見せつけて注目を浴びた、高松商業高校の浅野翔吾選手。
170センチと小柄な体格ながら、なぜ「四国の怪物」とまで言われる選手になれたのでしょうか?
その秘密は、浅野翔吾選手の父親の育て方にありそうです。
そこでこちらの記事では、浅野翔吾選手の父親について
・浅野翔吾選手の父親はどんな人?
・浅野翔吾選手の父親は彼をどのように育てた?
・浅野翔吾選手と父親にまつわるエピソードは?
といったことについて、お伝えしていきます。
浅野翔吾選手の父も元は高校球児!少年野球チームの監督もしていた!

浅野翔吾選手の父親は、
浅野幹司(53)さん
という方です。
父・浅野幹司さんは高校時代、徳島県の強豪校「徳島商業高校」の野球部に所属していました。
徳島商業といえば、板東英二さんや川上憲伸さん、オリックスの杉本裕太郎選手など、多くのプロ野球選手を輩出していることでも知られています。
幹司さんが高校時代、甲子園の出場経験があるかは不明です。
しかし、強豪校である徳島商業の野球部に所属していたということは、やはり実力もあったと言えるのではないでしょうか。
父・幹司さんは、香川県高松市にある少年野球チーム「屋島シーホークス」の監督として、子どもたちに野球を教えていました。

「屋島シーホークス」のHPには画像もありました。

と、キャプションが添えられていましたので、こちらの男性が浅野幹司さんだと思われます。

ちょっと厳しそうな監督・・・?

・・・と思いきや、笑った顔はとっても優しそうな方でした!
浅野翔吾選手とは目元や鼻などが似ているように思えますね。

浅野翔吾選手の父はどのように彼を育てた?

浅野翔吾選手が野球を始めたのは小学3年生の時だそう。
地元の少年野球チームで野球を始め、めきめきと頭角を現したという浅野選手ですが、その陰には父・幹司さんの存在がありそうです。

浅野翔吾選手が野球を始めたきっかけは
「父とのキャッチボール」
だったそうです。
特に、過去に野球をやっていた人であれば「息子とのキャッチボール」というのは憧れですよね!
父・幹司さんも、息子さんとキャッチボールができるようになった時はきっと嬉しかったことでしょう!

浅野翔吾選手が生まれたのは徳島県。
その後、父・幹司さんの転勤でお隣の香川県に引っ越しています。
そして小学校3年生の時、地元の少年野球チーム
「屋島野球スポーツ少年団」
に入団し、野球を始めました。
2015年、浅野翔吾選手が小学5年生のときに「屋島野球スポーツ少年団」と「屋島源平ウィングス」が一緒になり
「屋島シーホークス」
というチームになります。
そして、浅野選手が小学6年生の時、父・幹司さんは「屋島シーホークス」の監督となりました。
当時のチーム関係者の方はこう言っています。
心技体がそろった強打者はどのように育ったのか。浅野が小学生時代に所属した屋島シーホークスの当時の関係者が言う。
「お父さんは徳島商の元球児、翔吾の6年時にはチームの監督を務めていました。人当たりのいい方ですが、翔吾の指導には厳しかった。練習開始時刻にグラウンドに着くと、お父さんに叱られた後なのか、泣きながら練習している翔吾の姿を何度か見たことがある。」
日刊ゲンダイ
幹司さんは人当たりのいい方だそうですが、息子である浅野選手には厳しくしていたようですね。

実際に父・幹司さんが息子によく言っていたことは
「よく息子に言っていたのは、『仮に自分が高松市で1番だと思っても、香川県だとどうか、全国に行ったらどうか。自分より上がいるかもしれないのだから、天狗になったらあかん』ということでした」
FLASH
少年野球時代から頭角を表していた翔吾さんに対して
「天狗になってはいけない」
と良く言っていたのだそうです。
また、インタビューではこのようにも語っていました。
監督としての幹司さんは浅野に対して特に厳しく指導した。「ほかの子供さんには、なかなか厳しいことを言えないということもあったのですが、指導者から注意されたり、チームメイトが失敗したりしたときに、不満な気持ちが表情に出るのが、私は嫌いなんですよ。指導者の言うことを素直に聞く。チームメイトが失敗しても、イヤな表情を見せずに、励ます。そういう姿勢を学んで、身につけてほしいと思って、指導していました」
FLASH
野球の技術を磨くことも必要ですが、「人として大切なこと」もしっかり身につけてほしいと考えて、あえて厳しく指導していたのですね。
そうした父・幹司さんの指導は、浅野選手のこのような評判に繋がっています。
少年野球時代の彼を知る人は、このように語っています。
「屋島野球スポーツ少年団」の指導者のひとりが語る。
「翔吾くんは学年が上がってからも、下の学年のチームの試合があるときは、最後までグラウンドの外から観てくれて、声をかけてくれるんです。中学生になってからもそれは変わらず、自分たちの練習が終わってから、小学生のチームの練習を手伝ってくれていました。そういうことが自然にできる子でした。」
野球がうまい子は、そうではない子に対して偉ぶったりしたがるものですが、翔吾くんは逆で、天狗になることはまったくなかったですね」
FLASH
また、高校野球での浅野選手を取材たスポーツ紙記者も、このように彼のキャプテンシーを高く評価しています。
浅野が優れているのは身体能力だけではない。キャプテンシーも一級品なのだ。
スポーツ紙記者が語る。
「ベンチでは人一倍、声を出すタイプ。私が練習を見に行ったとき、浅野くんは三塁コーチャーズボックスに入り、一球ごとに守備についた後輩たちにアドバイスを送るなど、熱心に指導していました」
U-18でも、トスバッティングでは率先してトス役を買って出る姿が目撃されているが、その姿勢は、浅野が小学生のころから身についていたようだ。
FLASH
浅野翔吾選手と父・幹司さんとのエピソードは?

浅野翔吾選手は、スポーツ紙の取材にこのように語っています。
「調子が悪い時に一番、頼りになる存在です。修正する時に一番最初に聞くのがお父さん。自分で(修正)する時もありますが、それでも無理な時はお父さんに聞いて動画を見せて…。お父さんが今まで一番、近くで練習とか見てくれているので」。
スポニチアネックス
高校生くらいの時というのは、えてして父親と息子がぶつかったりギクシャクしたりしがちなもの。
しかし浅野家では風通しの良い、いい親子関係のようですね!
「一番頼りになる存在」
「修正する時に一番最初に聞くのがお父さん」
そう言ってもらえる親子関係は素敵です。
浅野選手が野球を始めた頃からのルーティンがこちら。
野球を始めた頃から、試合前に父・幹二さんへ「今日の試合はヒットを何本打つか」目標を話すのがルーティン。
香川大会決勝前は、安打数ではなく「全打席出塁する」と言い切ったという。
デイリースポーツ
試合の前に、父・幹司さんに目標を話すのが、小学生の頃からのルーティンなんだとか。
甲子園の大一番の前にも、そのルーティンは行われていたのですね!
浅野選手が父・幹司さんをどれほど信頼しているか伝わってくるエピソードですね。

高松市立屋島中学校時代、軟式野球部に所属していた浅野翔吾選手。
中学3年生のときには、軟式のU-15 (15歳以下)日本代表でアジア選手権に出場し優勝するなど、注目の選手となっていました。
そのため、進学先の高校を決める際には、全国の野球強豪私立校から複数の誘いがあり、浅野選手は香川県外への進学も考えたそうです。
しかし、ここで父・幹司さんがある助言をしたのです。
中学3年時には県外の名門私学から勧誘がきた。「まさか誘いがくるとは」と舞い上がる浅野に、父・幹司がこんな言葉をかけた。
「県外の高校に行ったら、お世話になった人が直接見に来られなくなるぞ。レグザムスタジアム(香川県営野球場)なら土日に来やすいし、応援してもらえる場所でやったほうがいいんじゃないか?」
NumberWeb
県外の私立強豪校という選択肢もあったものの、父・幹司さんから
「現地(甲子園)で応援されるのは地元で頑張る選手」
だと背中を押されたことで、自宅から自転車で15分の距離にある伝統校・高松商への進学を決めたのだそうです。
幹司さんは、このようなことも語っていました。
県外強豪校からの誘いもあったが、高松商に進学。父・幹司さんは「(息子は)もともとチアや吹奏楽などの、高商の応援が好きだったんですよ」と懐かしむ。
地元の高校へ入学するように後押ししたのは、幼い息子が目を輝かせていたことを知っていたからだった。
FULL COUNT
幹司さんは、子供の頃の浅野選手が、高松商業のチアや吹奏楽の応援に目を輝かせていたことを、良く覚えていたのですね。
まとめ
浅野選手の父・幹司さんは、幼い頃から浅野選手のことを全力で応援していたことが分かりました。
そして、息子である浅野選手もそんな父の応援に応えるように、大活躍を見せています。
ドラフトで注目される息子に対し、父・幹司さんは
「まだまだ子供で、社会のことをわかっていないですからね。球団に指名していただけるのかわかりませんが、まずは社会人として、ひとりの大人として、必要なことを身につけていってほしいです。あとは親元をはなれたとき、ちゃんと自分で健康管理ができるだろうかとか……とにかく、まだまだ心配ばっかりです(笑)」
FLASH
と語り、まだまだ心配は尽きないようです(親心ですね)。
暖かくも厳しい父の愛情を受け、ここまで成長した浅野選手が、今後プロ野球で活躍される姿を楽しみにしています!